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こんにちは。院長の市原三千子です。
高知県で生まれ育ち、大学に入学するまで1歩も外の世界を知らずに生きてきました。

よく言えばお嬢様育ち?
悪く言えば井の中の蛙?

でも確かにある意味家族には大変大切にしてもらった末っ子でした。
そんな私の半生記(半世紀?反省記?)をここに公開〜(笑)


生まれは高知県高知市の高知赤十字病院と聞いています。
3200gほどのなかなかの優良児で、11歳上の姉は最初に私を見た時「なんや、真っ赤なサルの子みたい」と言い、祖父は「やっと人間の子らしいのが生まれたね」と言ったそうです。
大人から見ると私⇒人間 姉⇒人間?という赤ん坊だったのでしょうね(ざまーみろ〜だ!!)
でもそう言った姉は私が生まれた日学校に行って大きな声で、「赤ちゃんが生まれたで〜!!」と友達に言い回っていたそうです。「おねえちゃん」になりたかったんでしょうかね(笑)
そんな私は両親と姉の愛情(?)に包まれて幼稚園まで高知市で暮らしました。

私が小学校に上がる年の6才の1月。
父の開業のためにここ南国市に一家で引っ越す事になりました。
子供心に引越しでお友達と離れるのがつらかった事を覚えています。
というのも実は私は結構な引っ込み思案の人見知り。
家でもしっかりものの母とプチママのような姉が仕切っていたので(これは最近もそうですが)、私は完全に妹性格のままでかわいがられていたようです。
幼稚園で集合写真をとってもまるで背後霊のようにチョコっと顔を出しているような子供でした。

今では普通ですが37歳になってからの遅い子供だったので、父はよくおもちゃを買ってきてくれたのは覚えています。
だから私はちょっといいおもちゃとか持っていたのでしょうね。
友達が来てままごとをしても子供の役でよくおもちゃをとられて遊んでもらってましたね。(笑)
そんな子供でしたから学校を変わるのは凄い不安で一杯でした。



それでも小学校に入学してほどなく友達はでき、一旦学校へ行くと友達と遊んでなかなか下校しませんでした。
いつも「もうちょっと・・もうちょっと・・」と思って遊んでるうちに、下校を知らせる「蛍の光」を聞いてから家に帰ると仁王立ちしている母が家の前に立っていました。
パターンはわかっているのになかなか学習できない性懲りもない子供でした。

その当時は父が開業したばかりだったので、母も受付で手伝ったり経理をしたりしていました。
その頃は姉はもう高校3年生だったのでほどなく大学へ行ってしまい、結局は昼間は家に独りだったからかな?とも思いますが・・
単に遊んだらやめられないだけだったんでしょうね。(笑)

小学校の高学年になってお決まりのように中学受験のために塾通いをするようになりました。
我が家の中にはある1つの「王道」がありました。
「土佐中学」⇒「土佐高校」⇒「医学部」⇒「医者」
姉はまさにこの通りの人生を歩んできました。
そして私も当然同じ道を歩むものだとなんの疑いももたず、友達もいるし〜みたいな感じで塾に通っていたと思います。
自分でいうのもなんですが成績も良かったので実際私も回りも土佐中学への合格を何にも疑っていなかったです。



人生ってわからないものです。
私は12歳にして初めての大きな挫折を味わう事になりました。
算数の試験のとき平行四辺形の面積を出す時に、「底辺×高さ」の高さをなぜか横の1辺にしてしまった事・・・
気がついた時には答案用紙は集められてしまっていました。
きっとそれだけではないのだろうけれどその時は真剣にそれが不合格の理由だと思って大泣きしました。

そして公立中学へ入学。
私の中ではもの凄い屈辱でした。

その悔しさから、初めて真剣に勉強を始め、そして1年後に学芸中学に編入することができました
今考えると、お気楽でのんびり屋な私にまじめに向き合い、努力することを教えてくれた大切な経験です。



中学2年からは学芸中学に汽車で通う事になりました。
「汽車通」ってちょっとかっこいいなあ〜、大人だな〜と思っていました。今思うと面倒なだけなんですが・・
若い時の順応性の高さはやっぱり凄いもので、編入しても結構さっさと友達はできました。
学芸では高校受験もないので(内部試験はありますが)5年間というものノホホンと学校生活を送っていました。
もちろんお付き合いをしていた男の子もいました。
でも今思うとすっごいかわいい交際で、交換日記をしたり一緒に時々帰ったりするのが嬉しいようなふつーの女子高校生でした。

「歯学部に行こう!」と思ったのは素晴らしい大志や野望があったわけではなく、「医学部よりは偏差値低い?」くらいのとっても程度の低い選び方でした。(すみません)
薬学部は化学が大嫌いだったので最初から考えもしませんでした。

中学入学の時点で我が家の「王道」から外れてしまった私は、ここでも軌道修正することなく、でもつかず離れずの医療系を選んでしまったわけです。
高2年〜3年になり進学校特有の受験体制の毎日に何の違和感もなく突入していきました。


そして昭和大学歯学部に合格!
18歳の春。私は歯科界への1歩を踏み出す事になりました。



実は私は入るまで、いえ入ってからもよくこの学校を理解していませんでした。
もちろん歯医者という職業さえちゃんと理解できてきたのは・・・
と思うとここ10年くらい・・開業してからでしょうか^^;

東京での大学生活は私にとっては楽しいものでした。
人生の中で帰ってもいいとすれば迷わず「大学時代」というと思います。
あ、勉強したとかいう記憶は大変希薄です^^;
でもいつもいつも友達や先輩に囲まれていました。
これは私にとってのすごい財産だし宝物のような想いだと思ってます。

大学ではバスケット部に所属しました。
小学生の時、ポートボールというのをしたことありますか?
私はあれが大好きで選手でした。(鈍い私がボールゲームだけは選手になれた)
学芸でもバスケット部に入りたかったのですが、帰りが遅くなる(汽車だし)ので入れませんでした。
でもずっとバスケットは大好きだったので大学入学してクラブ勧誘の時迷わずバスケット部に入部しました。ちょうど入学して友達になったばかりの男子が誘ってくれたせいもあったかもしれません。

6年間はバスケット部に在籍しましたがその当時まだ歯学部に女子が少なく、私の上に1人だけ先輩がいて普段は薬学部の女子部で練習をしていました。
といっても元々高校時代帰宅部だった私は体力にはあまり自信がなかったので、女子部の練習は時々でほとんどは男子部のマネージャーのようなことをしていました。

それでも週3回の練習に春夏合宿、夏のオールデンタル(歯科学生大会)と、結構クラブにどっぷりはまっていました。(笑)
その時の友達は今でも付き合いがありますし、いつも「OB会に来いよ!」とどやされてしまいます。

そんな友達や先輩に囲まれて面白おかしく学生時代を送っていた私にも、卒業して歯科医になる時がきました。
本当に自覚の足りない人間でまだまだできればず〜〜〜〜っと学生していたかった。働きたくなかった。。
結構みっともないですね。(笑)
世の中はバブル全盛の時代。東京では楽しく生きていけるものだと思っていました。
それでもいやでも卒業しなくていけないのでとりあえず大学の補てつ科(入れ歯専門)という所に入局を決めました。
実はこの時点でも友達がたくさんいる人気の科を選んだだけでした。

ここまで書いてすっごいなんのポリシーもなく歯科医になった自分が恥ずかしいです。。。



毎日楽しかったです。実に。。
今思えば当時は…チョ〜〜甘!!
毎日先輩の先生の治療のアシスタントをして自分の治療時間は週に半日だけ
あとは技工と先輩のお手伝い。そして週1日のアルバイト。
終業時間の決まりはなく夜6時過ぎるとなんとなくみんな集まってきて
「ご飯に行く?」←これは「飲みに行く?」という意味です。
そりゃ〜気楽よね〜
もちろん人数が多いので大学からは給料も出ません。
やっと給料が出るようになった2年目の秋。
4万5千円を3人で分けるように言われました。(笑)
いつもいつでも誰かと一緒。
先輩にもよくご馳走になりました。
でもここでも私の「歯科医」としての意識はまだ子供のままでした。



「卒業して2年したら高知に帰る」
卒業時に両親と無理矢理取り付けた約束の期限も近づいた2年目の秋。
高知医科大学の歯科口腔外科の面接を受けました。
当時の教授と15分ばかり話したでしょうか?
終わった後の私の感想は・・・あまりいい感触ではありませんでした。
教授は昔気質の歯科医でたくさんの患者さんを治療する事には長けているようでした。

そしてなによりその時イヤだな〜と思ったのは
「補テツ科か〜入れ歯なんか誰でもできて当たり前やしな〜わざわざ勉強するほどの事もなかろうに」
と言われてしまったことでした。
教授は「口腔外科が1番!」という人でした。

当時は他に勤務医として入る医院もなく、ましてや女医となるとほとんど雇用がなく敬遠されてしまったので、上司に対する多少の不安を抱きながらも、昭和63年春『高知医科大学歯科口腔外科』に入局しました。

この入局は私にとっては社会の厳しさを教えてくれたと思います。
最初の1年はとにかく医局にいることがなによりイヤ。
先輩の先生方もいつも忙しそうにしていて何もわからないし、何より教授が帰るまで帰宅できないのが苦痛でした。
特に最初の頃は夕方になると何の仕事もないので、教授が帰るまでの3時間余りをどう過ごしていいのかわかりませんでした。
今思えばもっと勉強できる時間だったのにと悔やまれてなりません

外来をし時々病棟の患者さんを診たり先輩の手伝いをしているうちに2年半くらい経って、ようやくちょっと医局での立ち位置もわかってきた頃に、愛媛県との県境にある吾川村という所の国保診療所への転勤の打診がありました。
最初は「え〜〜そんなところ?」と言って医局長に断りを入れると、「教授が言ったらもうそれは決定ということよ。断る事はできんよ」
ええ〜〜〜〜〜!!??
いくら独身っていってもそんな辺境の出張病院へ女の子を派遣するう〜?
って思いました。
でもこれは1つのチャンスかもしれない。
何かが変わるかもしれない。
そう思った私は村の診療所への派遣を受け入れることにしました。
29歳の秋でした。



最初は「うわ〜すごい!」みたいな診療所でした。
私が行ったのは診療所開設4日くらい前だったと思いますが、まだユニットも搬入されておらず診療室の床の工事中でした。
その時にこれからお世話になる看護婦さんと助手と受付の女性に初めて会いました。とにかく一緒に頑張りましょうね。と言って一緒に片づけをしたのを覚えています。
隣には以前より内科の先生が診療をされていてご挨拶をしました。
そして4日後・・・
多分それでも20人くらいは患者さんが来たのではないかと記憶しています。
というのも国保診療所なので内科と合わせて患者さんを送迎バスで連れてくるんです。

だから村民にとっては歯科の開業は待ちに待ったものだったようです。

ここでの2年9ヶ月は今までお気楽歯科医だった私にとっては、初めて「歯科医」を理解し始めた場所だったかもしれません。
患者さんは予約していてもお天気がいいといっては農作業に出てしまって来なかったり、お天気が悪いと農作業ができないからと言って急にやってきたり・・
台風だからもう今日は早終いしようと思ったら逆に空いているだろうと言って来る人があったりと・・とにかく村のお天気には大分悩まされました。
ある時は私のアレルギーがひどくなり仕事ができなくなり1時間くらい休診したこともありました。

ここでは私が赴任する前は歯の治療にお祈りをしたり怪しげな薬を塗ったりした先生?もいたそうです。
どういうわけか村民もそういう人がいて、「虫歯のところにタヌキの油を塗ったら痛くなくなった」とか、「痛かったから太夫さんにお祈りをしてもらったら治った」という人も時々ありました。

そんな田舎でしたから医者は痛くなったら来る所という「駆け込み寺」的発想は根強くありました。

この頃内科の先生と1〜2ヶ月に1度「健康教室」というのをしていました。
この村は愛媛県との県境にあり実に多くの山間の部落からできていて
私も時々は奥の部落に往診に行く事もありました。
しかし当時まだまだ「予防」という観点はなく、とりあえず奥の部落の人たちを集めて「歯にはこういう病気があるんだよ。だから気をつけようね。気がついたら診療所においでね」というお話をするので精一杯でした。
でも今思えばそれが今の「予防歯科」を考える1歩に繋がっていたのかもしれません。

一般の人に歯の病気の重大さを伝えること。
これだけでも大変な仕事でした。

そんな活動もしながらの診療を始めて2年半が過ぎた頃、周りもそういう雰囲気もあったので結婚をしてみようと思い退職しました。
とはいえ結局は事情もあり縁もなかったようで結婚には至りませんでしたが・・^^;

でもここでの経験は私の歯科医師人生の中で一番人と密接に関わった時期だったように思います。
そして送別会の時に言った言葉の中で「ここにきて村の人々が私を(先生)にしてくれました。でも本当はみなさんが私の先生でした。」
と言ったことは今でも心に刻んでいます。



診療所を辞めて1年くらいは他医院を見学したりバイトをしたりして過ごしました。そんなある日医大時代のライターの先生から1本の電話が入りました。
「今どこか勤めゆう?勤めやせんかったら同級生のところが勤務医を探しゆうけど行ってみるかえ?」
これが岡本歯科と私との出会いでした。
2日後の土曜日の午後。
私は岡本歯科の待合室で岡本院長と岡本Jr先生に初めてお会いしました。
その時の印象として院長は柔和な笑顔の紳士でJr先生はおおらかで気さくな先生とお見受けしました。
Jr先生が別の場所で開業されるために勤務の先生を探していらっしゃるとのことで「私でよかったら〜」←まるでプロポーズされてるみたいですね〜(笑)
という事で勤める事になりました。それはそろそろ梅雨もあがりそうな平成6年7月のことでした。

岡本歯科に勤め始めてそこで今のスタッフの核となるみんなとの出会いがありました。

当時は私以外には衛生士3人・受付1人・助手1人に技工士1人という構成でした。でも昔はもっとたくさんのスタッフがいてスタッフルームもぎゅうぎゅうだったそうです。

食事会や忘年会、それに慰安旅行にも連れて行っていただきました。
東京のデンタルショー講習会にも行かせて頂き、最先端の歯科医療の知識を得られる貴重な機会を得ることもできました。
また、スタッフともいつも楽しく仕事をさせてもらい、もちろん給与もきちんと頂いていたので、ほとんどまたお気楽に歯科医をしていました。





そんなお気楽勤務医を始めて3年半過ぎたある日の朝。
その日は突然やってきました。
朝仕事に行くと「市原先生。ちょっと来て」と院長の声。
内心「やば〜何かトラブルがあったのかな?注意されるかも・・」などと考えていました。

いつも柔和な岡本院長はこの日も同じ笑顔で私に
いやあ〜先生、この医院をやらんかね〜?」と話し掛けてきました。
「へ?どういことですか?」
「もうそろそろ歯医者は卒業したくなってね〜。先生後お願いね〜」


大半の方が記憶に生々しい’98豪雨のわずか4日後、平成10年10月1日。
この日が私、市原三千子の開業医人生のスタートの日となりました。

この頃はまだまだ岡本前院長から引き継いだ毎日毎日をこなしてゆくだけで精一杯。ただただ前院長に恥をかかせてはいけないという気持ちのみが先行した毎日でした。



というわけで「岡本歯科」をお預かりさせていただいた私ですが、院長職というのは見た目より雑務が多いことに苦労しました

私たちは今まで学校では純粋に病気を治す事だけ勉強してきました。
経営者としての勉強はもちろん、経理も労務もとにかく何も知りません。
今でもよくわからないことがあってよく今までやってこれたなあ〜と感心してしまいます。
勤務医時代には診療だけしていればよかったことも、院長となれば毎日の日計表からつり銭までなんでも知ってないといけません。
[診療室のDr]と[雑用係の院長]という仕事に追われる毎日をただ一生懸命にこなしていきました。
その頃の私の使命は「スタッフにきちんとお給料を払えること」でした。



そんな毎日を送っていたある日。
愛読している歯科雑誌のある記事に目が留まりました。

それが、衛生士が経営する「歯のエステショップ」でした。

この時私の頭の中でベルが思いっきり鳴り響いた気がしました。
「これだ!!」って感じ。

富山県(行った事もありませんが)の衛生士さんが
歯科医院ではない場所で「お口の健康を売る商人」として頑張っている・・
そんなくだりから始まる記事でした。

きれいになりたい
これは老いも若きも全女性の共通の願いです。
美しくしたいのは顔、身体、髪・・・その中に歯があっても不思議ではないでしょう。


行政で歯科衛生士として働いていたその人(S田さん)は
自分で何もしなくても歯や歯肉が非常に健康な人がいることに気がついていたそうです。

そしてそういう人達が求めている事は
やはり「歯もきれいにしていたい」と言う事・・・
そしてそしてもっと気軽に口の健康への関心をもってもらえるようにと
「歯のエステショップ」を開店し
歯科医療と人々との架け橋になれば・・と考えたそうです。

実際開店のために一方的にメールをしてコンタクトをとり
スタッフ講習のためにS田さんを富山から高知までお呼びした時の私のパワーたるや・・
はっきり言ってまだその頃はあまり乗り気ではなかったスタッフはちょっと驚いていました。
でもとにかく今やるしかない!そう思っていました。

最近ドラッグストアに行くとデンタルケアグッズというのは非常に沢山あります。
でもみなさん。本当に自分に合った歯ブラシとか歯磨き粉を使っていますか?

歯科医院というところはなぜか一般の人には敷居の高い場所であると聞きます。
だってなんか歯がへんだな〜とか
歯ブラシ買いたいだけなんだけど〜とか思った時にわざわざ歯医者行って場合によったら
名前名乗って保険証出して〜
ちょっと相談したいだけなのに〜
そこまでするのはねえ〜

みたいな方多くありませんか?

そういう時気軽に入れる歯とお口の健康ショップがあれば・・・

例えば化粧品買うときだってそうですよね?

買うものが決まっている時はいいんですが
どんなファンデーションがいいかな〜?って悩んでいる時
お店に人に相談しますよね?

そうしたらだいたいはお店の人はあなたのお話を聞いてくれて
いろんなチェックもしてことによったら
「こんな色はどう?」などとちょっと手に塗ってくれたりしますよね?

そういう時店員さんとの話が弾むとちょっと高くても思いっきり買っちゃったりしませんか?

それでもっと仲良くなるとまたその店員さんから買いたくなりますよねえ。。

歯みがきグッズもはっきり言って同じです。

あなたが気になることを衛生士に相談しますよね?
衛生士はあなたの状態を把握した所で
今一番あなたに合っていると思われる道具を選んでくれるでしょう。
そしてその効果的な使い方も教えてくれるはずです。

でもそれって普通歯科医院に通院していないと受けられないサービスなのです。
誰でもがそのサービスを気軽に受けられるために・・・
私はこれこそが予防の第一歩になると考えたのです。

医院は敷居が高く入りにくい。
だけどお店なら名乗らなくても簡単に聞ける。
しかもお店にいるのは衛生士というプロである。
何でも聞いてくれるだろう。
そう思って欲しくて

平成19年10/1
歯と口のリラクゼーションショップ BLUE TOOTH」を開店!!
主に歯みがきグッズの販売歯のクリーニング(歯みがき)を行うことになりました。


お店のグッズはドラッグストアではなかなか手に入らない医院専売のものを中心に、衛生士がしっかりと説明をして販売をするようにしています。
そうする事で歯の大切さ美しさを守るために必要な事を伝えようと心がけています。

そして本命のデンタルエステ
いろんなメニューを考えて行っています。


それと並行して2年ほど前から歯周病治療に力をいれるようになり
更に予防との連携を深めている所です。

この平成21年4月からは
どういうわけか高知県歯科医師会理事になってしまいました。^^;

今まで自院のことだけで精一杯だった(今もそうですが)私が他院の事も考えないといけない立場になる・・
結構それだけでプレッシャーです。余裕もないし・・
それにどこを見渡しても女は私一人・・・
イヤでも目立つ。。会議はつまらなくても眠るわけにもいかない・・
でもおかげでいろんな人や団体との関わりもでき
学生時代より勉強もさせて頂いております(笑)
悪い事、しんどい事ばっかりでもないですね。


そんな事を考えながら今まで過ぎてきましたが
これからもまだまだ岡本歯科同様、院長も年の割には「発展途上」ですが、常に元気で明るく皆さんと一緒に
オリジナルスマイル」で頑張っていきたいと思っています。

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